2016年6月15日水曜日

Session



映画『セッション』をDVDで鑑賞。
観賞後、一日経ってもまだこの映画について考えている。
この映画には、いろんなところに複線が張られており、それがキーワードになっている。
フレッチャーが、もしただのサディストであったのならば、なぜ彼に壊され自死を選んだ卒業生は一人だけだったのかという疑問が残る。ニーマン(主人公)に対したような態度を他の生徒にしていたなら、被害者はもっと多かったはずだ。
フレッチャーの目的は、一体なんだったのだろうか。フレッチャーは音楽(ジャズ)に取り憑かれた悪魔だ。映画は一貫してそう描写している。悪魔は、人を誘惑し破滅させる。
『セッション』の読み解き方が少し見えて来た。

映画冒頭で主人公がまじめにドラムに打ち込む少年であることが判る。
そんな彼の前に、まるで誘惑するかのように現れるフレッチャー。純粋無垢な少年の心をもてあそぶ、まさしく小悪魔のように彼の気を惹く。
そしてフレッチャーの王国へ彼を誘う。最初は優しく、そして豹変。ニーマンを翻弄し追いつめる。
フレッチャーのサディストっぷりは見事だが、ニーマンは彼に心酔していく。
こうしてニーマンは悪魔(フレッチャー)の虜になっていき、自分自身も悪魔のようになっていく。彼女を捨て、汚い言葉を使うようになる。
まるでメフィストフェレスに誘惑されたファウスト博士のように堕落する。そう、『セッション』は、まるで『ファウスト』の焼き直しだ。

フレッチャーは、ニーマンに色々な罠を仕掛けていく。そのどれもが試練のように見せて、じつは破滅への入り口。あらゆる罠を乗り越えたニーマンもついには破滅を迎える。
終盤。学校を辞めさせられたニーマンが街でフレッチャーと出会う。まるで誘うように看板があり、引かれるように店に入って行くのは、まさに悪魔が仕掛けた罠だ。
悪魔に魂を奪われたニーマンは楽園を追われた。だから街はどこか現実感がなく雑多。悪魔は、ニーマンを破滅させるため、再び彼の前に姿を見せた。次に破滅させられれば、ニーマンの魂は本当につぶされてしまう。ニーマンの前にフレッチャーのターゲットとなった元生徒ショーン。彼が自殺したという話は、象徴的だ。おそらくフレッチャーは、卒業後もショーンをこのようにして追いつめ、そして破滅させたのだ。そう、フレッチャーは、最後の仕上げをするためにやってきたのだ。
ラスト9分は、悪魔と主人公の魂を掛けた闘いであり、一度敗れた主人公がついに悪魔を屈服させることで完結する。

ちなみにフレッチャーが学校を辞めさせられたことは、物語的にはそれほど重要ではない。観客に判り易いようつじつまを合わせるためだろう。ニーマンが辞めてから、学校の描写は一切無くフレッチャーが学校を辞めていようがいまいが、映画の展開としてなにも変わらないからだ。だから、復讐という言葉も二人の関係にそぐわない。
悪魔はサディスティックでそしてマゾヒスティックだ。いつも神の敵役としてやられ道化を演じる。だからフレッチャーはニーマンの抵抗も楽しむ。そして、ニーマンの魂が浄化される瞬間を見る。
メフィストは、いつも傍観者でそして批評家なのだ。

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