2016年6月18日土曜日

Wall


映画『セッション』のフレッチャーとニーマンの関係は、映画「羊たちの沈黙」のレクターとクラリスと同じだ。
フレッチャーは、サイコパスだ。自殺した卒業生のことを皆に語っているときの感動的な表情。しかし、その原因を作ったのがフレッチャーだと判明した時、この映画の観客は、驚き混乱したはずだ。理解できない思考。観客を混乱に導くことが監督の意図だからだ。
サイコパスだから、フレッチャーは優秀な指導教官となる。そして彼の言動は魅力的だ。クラリスに話しかけるレクターのように上品で言葉たくみ。
クラリスがレクターに魅かれたように、ニーマンもフレッチャーに魅かれて行く。
ニーマンは、冒頭で憑かれたようにドラム練習を続ける。これは、彼の真面目さを表すと同時に異常さも表している。その異常さが、フレッチャーと触れ合っていくうちどんどん加速させられていく。言動も行動もおかしくなり、フレッチャー化していくのだ。

映画『セッション』は、スポ根音楽映画の皮を被ったホラー映画だった。そのように見たとき、この映画の結論は違ったものになってくる。
サイコパス(フレッチャー)にとって玩具(ニーマン)を楽しむには、どのような方法があるのか。一つは、彼を破滅させることだ。けれどもうひとつ別の楽しみ方があるとしたら。
ラスト9分のバトル。最初は挑発していたフレッチャーが徐々にニーマンに合わせるようになっていく。そして彼はニーマンに微笑み掛け、うなづく。
ニーマンは、自らの意思でバンドを支配しドラムに没入し狂気に取り憑かれていく。純粋で無垢な存在が、自分(フレッチャー)と同じ存在になっていく。
ニーマンの中に自分と同類の狂気の匂いを嗅ぎ取り、彼を自分と同じ存在させる。フレッチャーがしかけた二重の罠。
終幕後にニーマンのドラムの独奏が続くのが謎だった。あのドラムには、心地よさを感じられない。もし、ニーマンが勝利したのなら、あのドラムはもっと素晴らしい音でよかったはずだ。
この点については、ボクも最初はニーマンの魂の救済と考えていた。しかしそれだと終幕になっても続く負の空気が説明つかない。この映画に一貫して流れる空気は、あきらかにホラーだ。ネットで音楽性に対して酷評が多く見られたのは、音楽映画として捉えた場合、あまりにも不快感が漂い過ぎているからだ。
この監督の手管は見事と言って良い。調べてみると、監督のデミアン・チャゼルは、この映画を撮るまでは、ホラーやスリラーの脚本を手がけていたらしい。なるほど、と合点がいった。

映画『セッション』に仕掛けた罠、見事。

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